無限に始まりと終わりは無い.有限に暗がりと絡まりは無い.

2010 年 1 月 31 日 | カテゴリー: 中の人の戯言

御機嫌よう.かさだんごです.此は物語を楽しんで頂ければ.

――――――

その日,僕は日直の仕事を終えるとカバンを取りに教室に戻った.少し手間取ってしまったのでもう誰も残っていないだろうなと思っていたが,佐藤さんがぽつんと窓のそばに立ってどこか遠くを見ていた.他には誰も居なかった.

佐藤さんは僕に気付くと,待っていたよ,と言った.きょとんとする僕の元へやって来ると,無造作に一冊のノートを取り出し,何も書かれていないページを開いた.そこにさらりと一本の線を引く.

「ここに一本の線分がある.直線じゃなくて,線分.いいね?」

僕は曖昧に頷いた.佐藤さんの短い髪が満足げに小さく揺れた.

「これをひもだと考えよう.このひもは完全に見渡すことができる.そう,視界のうちにすべてを留めておくことができるんだ」

そりゃ有限だからね,と僕は言った.多少だけれども物事を知っている僕にとっては,彼女の言いたいことはなんとなくわかる.つまり,始まりと終わりが存在する,ということだ.

「そう,その通り.じゃあ,ここからはひもを増やすことを考えよう.二本のひもを用意する」

佐藤さんは先程の線分の脇に,ぐちゃぐちゃと絡み合った二本のひもを描いた.

「このひもは一見複雑に絡み合っているよね.固結びしてしまったひもを解くのはなかなかに大変だ.でも,幾何学的には,これを結んだのと全く逆の手順を踏むことでこのひもを解くことができる」

僕はやや考えてから頷いた.ただ適当に頷いているだけでは,佐藤さんにいい加減な人だと嫌われてしまうだろうから.……そんな余計なことを考えている方が,十分に嫌われる原因になりうるとは思うが.

「でも,実はどんなに頑張っても解けないひもがあるんだ.知っているかい?」

佐藤さんは顔を近づけて,僕の目をじっと見つめた.どこか妖しげに微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか.僕は胸の鼓動が早くなるのを抑えられなかった.顔が熱い.もしかしたら紅潮しているかもしれない.佐藤さんはそれを見ているだろうか.ああ,恥ずかしい.

どぎまぎしながら,僕はわからないよと答えた.

「教えてあげようか」

佐藤さんの右手が僕の肩に掛けられ,左手が僕の首筋に添えられる.吐息も届いてしまいそうな距離.ふらりと意識が離れてしまいそうになる.その上目遣い,ああ,反則だ.もう何も頭に浮かんでこなかった.はいとも,いいえとも返事をせず,ただ僕は佐藤さんの蠱惑的な表情にとり憑かれていた.なおも佐藤さんの顔が近づいてくる.

「それはね…………?」

ああ,まずい,それ以上はダメだよ,佐藤さん.僕は焦って教室を見渡す.誰も居ない事は先刻承知だ.しかし確かめる.何度も何度も,ドアの向こうに誰か居ないだろうか,教壇の裏に誰か隠れていないだろうか,ベランダから覗き込む者は居ないだろうか.音にも注意を向ける.誰かの足音は聞こえてこないだろうか,隠れている者の息遣いは聞こえてこないだろうか?

だがそれは逆効果でしか無かった.見えるものは,嗚呼,ほんのり赤みの差した柔らかそうな肌の佐藤さんの顔以外には有り得無かったし,聞こえるものは,佐藤さんの艶やかな唇から漏れる呼吸の音と,自分の緊張と興奮で乱れた鼻息の音以外には有り得なかった.佐藤さんと僕,今ここには二人だけの空間が出来上がっていたのだ.否,教室という日常空間から僕ら二人が切り離されたのかもしれない.どちらでもよかった.どちらにしろ好都合だ.誰にも見られることはないのだから.

僕はいよいよ緊張に心臓が胸を突き破らんとするのを感じて,どうにかこうにか覚悟を決めなければならないと思った.どんな覚悟か,そんなことまで考えている余裕などないが,とにかく覚悟を決めて,落ち着くのである.じっと僕の目を見つめ続けている佐藤さんに対して,僕の視線はちらりちらりと彼女の目を捉えるばかりでちっとも正視できない.せめて彼女の瞳の色を見ようと決意するのだが,彼女から漂ってくるに違いない甘い香りに脳を侵されて,一秒前にしたそんな決意はふいと消えてしまうのだ.

やがて,やがて,とても長い時間に思えた,その時間の後に,彼女は口を開いた.

「それは…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「主婦の財布のひも,だよ♪」

パッと僕を離してけらけらと笑う佐藤さん.僕は唖然とするしかない.ついさっきまで感じていた胸のどきどきや,脳がぽーっと蕩けさせられるような感じ,全身のあわだちはすっぽりと抜け落ち,なんだそれ,なんだそれ,と繰り返すだけの人形になる.それが二百ぺんほど頭の中をぐるぐると回ったところで,ようやく意識がその意味を捉え始めた.

佐藤さんは可笑しそうに笑っている.腹を抱えて笑っている.これまでに見たことがないほど,まるで日本一の漫才を見た観客のように,あるいは世界一のジョークの意味を理解したときのように笑っている.目の端に涙すら浮かんでいる.このときには僕はすっかり意識を取り戻し,呆れと怒りを覚えていた.どちらにせよ,そこまで笑わなくてもいいじゃないか,という意味である.

「ごめんごめん……」

でも,ありがちなとんちだよ,と彼女は付け加えた.それはそうだ.なにより固いひもは主婦の財布のひも.古くから使い古されたフレーズである.わからないほうが悪いと主張することも許されるほど有名なネタだ.確かにそれは認める.だけど,だけど.佐藤さんを前にして,佐藤さんに迫られて,どきどきと心臓が爆発しそうなほど高鳴っていて,脳みそをとろとろに溶かされて,そんな状況の僕にそんなことがわかるハズが無い.佐藤さんはわかってやっていたのだろうか?だとしたら,それは相当な意地悪である.酷い.何より酷い.僕の佐藤さんへの気持ちを弄んだのだから.そう思うと,どんどん怒りが湧いてくる.

だが,僕はもともと気の強い方ではない.そうそう怒ることもない.もう,あんまりいじめないでよ,とたしなめることしかできないような優男なのである.だから今回も僕はそのようなことを言った.そんなイタズラは心臓に悪いからやめてよ,と.

少し残念そうな口振りになってしまったかもしれない.だが実際,彼女と,その,よい関係を築くことを期待していたのだから,仕方ない.顔色にも出ていたかもしれない.僕はそれを悟られたくなくて,佐藤さんに背を向けるように適当な椅子に座った.

「…………」

「…………」

ひとしきり笑い転げたあとの佐藤さんは静かだった.僕も何も言わないから,必然,教室には静寂が訪れる.クラスメイトたちが騒がしく喋っていたはずなのに何故かふと静かになる瞬間,あの感覚に似ていた.どうにも座り心地が悪い.そうかと言って,ここでさっさと立ち上がって帰ってしまうのも躊躇われた.僕はせっかくの佐藤さんと二人だけの空間をまだ続けていたいのかもしれなかった.それは否定できない.学校生活で佐藤さんと二人っきりになることなんて滅多にないのだから.とは言えそれを肯定するのは恥ずかしくて,そんな考えを必死に心の奥に押し留めた.

そんな状況がしばらく続いた.日はどんどんと傾いていった.佐藤さんが立ち上がる音が聞こえた.

「さてと,私は帰るね」

「…………うん」

何気ないふうを装って返事をする.背中を向けたまま,また明日,と言う.そんな素振りが不自然に,心残りに,どこからどう見たって別れを惜しんでいるようにしか見えないことに気づくほど,僕は大人ではなかった.そんな言葉に,しかし佐藤さんは気づかないのか,また明日ね,と普通に答えるだけで,靴音を響かせて行ってしまった.

「…………はぁ」

人に聞かれない程度に小さなため息をつく.彼女すら居ない今そんな配慮は無用なのだが,僕は何故だかそうした.

窓辺に寄り,しばらくの間,ぼうっと外を眺める.ちょうどこの教室に入ってきたとき佐藤さんがそうしていたように.彼女は何を見ていたのだろう?真下の校庭?少し先の鉄塔?あっちのビルだろうか?……あるいは,何も見ていなかったのか.何かを考えていたのかもしれない.何をだろう?再来週のテスト範囲だろうか?それとも僕にどんなイタズラを仕掛けるか,かな.

「…………帰ろう」

僕は先程の出来事を始めから終わりまで思い出してみじめな気持ちになると,カバンを手に取り,教室の電気を消した.早く帰ってお風呂に入って寝よう.胸のもやもやとしたこの気持ちを晴らすために.あるいは見ないようにするために.

僕は足早に廊下を歩いていった.他の教室にも,もう誰も残っていなかった.

こういうときは何も考えないのが一番だ.気にしない.気にしない.胸のもやもやを無いことにはできないけれど.どうしても感じてしまうけれど.歩く.ただ歩く.ひたすらに歩く.途中,先生とすれ違って挨拶をするなどして,下駄箱を目指した.

早く帰ろう.

そう思って,下駄箱に手を突っ込んだ時,何かがカサリと手に触れた.

「あれ?」

それは手紙だった.可愛らしいクマのイラストのついた封筒.ハートマークのシールで封がしてあった.まさかラブレターだろうか.僕は再び,胸が高鳴るのを感じた.誰からだろう.何事だろう.表,裏,表,裏,何度もひっくり返す.差出人の名前はどこにも書いていなかった.中に書いてあるだろうか.

僕はシールの封を破かないようにそうっと剥がすと,中の手紙を取り出した.外の封筒と比べ,ずいぶんといい加減な便箋が使われている.大学ノートを4つ折りにしただけのようだ.しかも一つの端は手でちぎったようにぎざぎざになっている.手紙にするのなら,普通はハサミくらい使うだろうに.

「これは……?」

開いてみると,それはつい先程見たものだった.そう,佐藤さんが描いたひもの絵がある紙片だったのだ.そこに見た記憶の無い一行,たった一行だけが女の子らしい丸みを帯びた文字で書き加えられていた.僕はそれを見て,胸が熱くなるのを感じた.そして全てを理解した.彼女はおそらく,少しずるい知恵を働かせたのだろう.脈無しならあのまま冗談にしてしまおう,という.

――君と私の小指の赤い糸を本当の正解にしちゃ,ダメかな……?

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