「不快」なゲームデザイン
まりゅりゅりゅです。間違えました、まりゅりゅです。
書くような進捗もないので、今回はゲームデザインに関するそれっぽいことを適当にほざいてお茶を濁すことにします。
では早速。ゲームの面白さってなんなんでしょう。
「できないことができるようになる喜び」。なるほど、正しそう。
「他人に勝つ快感」。なるほど、マウントを取るのは気持ちがいいですよね。
「衝撃のストーリーで感情が揺さぶられる」。ゾックゾクしますね。
……とまぁ、こんな感じのことをよく聞きます。インターンとかで。いや私インターン落ちてばかりですけども。
さて、ここで言われる面白さはたいていポジティブな面です。面白さがポジティブな感情なのは当然です。
ーー本当に?
できないことができるようになるには、前提として「できない」ことが必要です。不快ですね。
他人に勝つことは、同時に負ける可能性も含んでいます。負けるのも不快ですね。
感情が揺さぶられる、これはある種のショックです。不快とまではいかなくても、動揺は必要です。
何が言いたいか、なんとなく想像がついている方もいるでしょう。
面白さはネガティブな感情、特に「不快」のコントロールが重要だと主張したいのです。
実際の例を見てみましょう。
例えばRPG系のソシャゲ。育成がめんどうですね。でも、育成がないとやることがすぐになくなるのも事実です。実装してみてよく分かりました。
例えばカードゲーム。じゃんけんとかメンコとか言われてますね。でも、プレイングが思い通りにいかないからこそハマったときは気持ちがいい。負けたときは悪いのは自分ではなく運である。
例えばガチャ。当たるのは気持ちがいいけど、当たらないから回したくなるのもまた事実。出るまで回せ、必ず出る。
少なからず「不快」というものは随所にちりばめられています。当然です。
なぜならこの「不快」という感情こそがコンテンツの寿命に直結するから。
刹那的な面白さを追求するなら、ただ快適にすればいい。でも、そこにコンテンツとしての未来はどうしても薄くなります。
長期的な面白さを考えるのであれば、後で上げるためにいったん落とす「不快」の要素がどうしても必要になってきます。
ここで大切なのは、言うまでもなくその按配です。ある程度は思い通りにいかない方が面白い、恋愛みたいですね。知らんけど。
どこまでの不快が許されるんですかね。正直ちょっとまだ分かんないんですよね。あはは。
でも、これがいわゆる達成感です。脳汁ドバドバです。
快適なだけでは飽きます。というかやることなくなる。不快なだけでは誰もやらない。当たり前ですね。
そう、私が偉そうにふんぞり返って書いてるこの文章、当たり前のことを書いているだけです。
ついでに言えば、正しくないと思う人もたくさんいるでしょう。でも石を投げたりしないでください。当たると痛いので。
あくまで一個人として私がこんなことを考えているというだけです。勝手なことを書いています。「そうなんやー」とか思わないでください。責任は取れません。
ですが、それでも「不快」という感情の重要さは軽視されがちだと思うのです。だから書きました。ただの自己満ですが、誰かのためになると嬉しいですね。
そんなことを考えてゲームデザインをしています。これくらい書けばいいかな。いいよね。
じゃんけん最高!
快ならざるものとしての「不快」というよりはストレスや負荷のようなものかと思いました。ていうかどっかのゲームデザインの記事で読みました。思い出せんけど。
報酬をもらった瞬間よりも報酬を見込める苦労をしている時間の方が人間って脳汁が出るらしいですよ。いや本当かわからんけど。
ストレス、負荷、目標、越えるべき壁などなど色々な表現の仕方があるとは思いますが、ソシャゲにおいては敢えて強く「不快」と言ってしまったほうが分かりやすいのかなと思い、こういう表現にしました。
その記事は知りませんが、ちょっと読んでみたいですね。きっとみんな似たようなこと考えてるんだと思います。
後半の話はどっかで聞いたような気もしますが、無知を晒したくないのでお茶を濁します。かちゃかちゃ。
適度な苦労が面白さに繋がるとは思うけどそれ自体が面白いわけじゃないよね、と考えると単純な神経作用だけで感情を知覚しているわけじゃない気がして面白いですよね。うん、詳しくないからやめておきましょう。