映像メディアと文章メディア 「MOBの人」シリーズについて

2009 年 2 月 3 日 | カテゴリー: 中の人の戯言

こんばんは。どうでもいいですが、今年の2月は、日曜日始まりのカレンダーできっちり4段に収まっているんですよね。ただでさえ短い2月が余計に短く見えてびっくりです。

今日は、ニコニコのおすすめ動画を紹介しつつ、映像メディアの特性について考えてみようと思います。紹介するのは、「MOBの人」シリーズの1作です。

動画を見てもらえばわかりますが、このシリーズはアニメのモブキャラをとりあげて、弄ったりいちゃもんを付けたりするというものです。上のものは作者の妄想力が最大限に発揮された、シリーズ中でも出色の出来というべき作品です。とくに百合系のひとはぜひ見るべきです。その理由は最後まで見ればわかります。

ぼくは主に小説やエロゲといった文章メディアで育ってきたので、映像メディアにはなんとなく苦手意識のようなものを感じていました。かってに話を一般化するのはあれですが、世代論的にいっても、エロゲ全盛期に趣味を形成した80年代後半生まれのオタクには似たようなひとが多いのではないかと思います。そんなわけで、映像メディアに対してはいまいち勘所がつかめないまま今にいたるわけですが、この動画は映像メディアに特有の豊饒性というものを教えてくれるように思います。

それは、たとえば小説というメディアで同じようなモブキャラいじりができるかどうか考えればわかります。当然できないはずです。それは、モブキャラというのは意味を持たない記号で、意味を持たないがゆえにこの動画のように恣意的な物語を読み込むことが可能になるわけですが、このような意味を持たない記号は映像メディアにのみ存在しうるからです。その理由は、文章メディアでは視線の存在それ自体がかならず意味を持ってしまうという点に求めることができるでしょう。

たとえば、「僕は廊下を歩いた。廊下にはふたりの少女が立っていた。少女のひとりは(略)」という文章があったとして、文章メディアでは、ここで「ふたりの少女」に注目し、描写しているという事実自体に、「ふたりの少女」がなにかしらの形で物語に関わってくるよ、というメタメッセージが宿ってしまうはずです。一人称形式の場合、それに加えて視点人物が「ふたりの少女」に興味を持ったということをも意味します。したがって、「ふたりの少女」がその後いっさい話に関わってこなかったとしたら、その描写はたんに不要なものとして読者に違和感を与えてしまうだけでしょう。つまり、文章メディアには、技法上、意味のない記号の居場所はありません。

いっぽう、映像メディアでは、モブキャラのような意味のない記号が背景として積極的に要請されます。そこではむしろ、モブキャラの不在が積極的な意味を持ってしまいます。たとえば、休日の商店街のシーンでモブキャラが一人もいなければ、それはまるでゴーストタウンやシャッター街のように見えてしまうでしょう。場面を正しく演出するためには、適切な量の記号をそこに配置する必要があるわけです。

この違いは、つきつめると、かたや言語、かたやカメラという二つの表現手段の差異に由来するのでしょう。よく知られているように、言語は固有の負荷を持つので、事物に対して絶対に中立ではありえません。なにかを描写することそれ自体がなんらかの意味を持ちますし、言葉の選び方にも意味が宿ります。一方カメラは、その方向や焦点の位置にこそ撮るものの意図が混入しますが、視野に含まれる事物にたいしては中立的で、取捨選択は発生しません。主人公も生徒Bも、カメラのレンズに収まる限りにおいて等しく存在が認められるのです。

このようにして、意味を持たない記号たちの居場所が生まれます。かくして誕生したモブキャラたちに、わたしたちは妄想の翼を広げ、物語を吹き込むことができるのです。ここに、意図せざるなにかが映りこむ映像に特有の豊かさ、余剰なものの美学を見出すことができるでしょう。

とか書いてたらみなみけ見逃したわけですが!内田かわいいよ内田!

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