創作者と需要側とプロ思考に対する持論

2009 年 3 月 3 日 | カテゴリー: 中の人の戯言

創作者、つまり供給する側に立つ人間は、常に需要側に対して責任を負っている。
これは一見創作者側にしてみれば理不尽かもしれないが、需要者側にしてみれば至極一般なこと。
例えば、高い金で車を買った時に、車が欠陥品だったとしよう。責任があるのはもちろんメーカーに決まっている。我々需要側に何の負い目も無い。

何かの作品に批評のコメントが向けられた際、その批評家に対して

「じゃあ、君がやってみなさいよ」

という反論を述べる創作者がいる。

この反論が正当であるかどうかは状況によって決まる。

まず、批評家が「客」である場合。
例えばジャイアンに対してのび太が「君は歌が下手だ」と言うケースだ。
この場合の批評家であるのび太君はただの視聴者、「客」なのであって、ジャイアンの歌の善し悪しについて客観的な評価与えた。
「俺が下手糞だと?!じゃあお前が歌ってみろよ」
とジャイアンに言われる筋合いは全くない。ジャイアンはのび太達を「客」として、のび太達に満足感を与える為にリサイタルに呼んだのである。ここでのび太がにマイクを渡すようなジャイアンがいたら、それは歌唱力の前に歌に対する姿勢という点からジャイアンは即刻歌手を辞めるべきだ。のび太が歌う必要はどこにもないのである。こんな場合のジャイアンのこの発言は全くの言いがかり、不当と言える。

正当の場合。
批評家が創作者と同じ創作に従事する、供給する側の者だった場合である。
未来の世界で、ジャイアンに同じようにしずかちゃんが歌の道に志を持っているものと仮定する。その場合、ジャイアンがしずかちゃんに対して「歌が下手だな」と批評を放った場合はどうか?
しずかちゃんは決してジャイアンの為だけに歌っているわけではない。彼女は歌手になった、皆に愛されるアイドルとなった。供給する側だ。
そんな彼女の歌を聞くジャイアンは同じ「供給側」つまり歌手を目指すドリーマーだ。半分くらいは「客」として彼女に対して批評を放つ権利があるかもしれないが、もう半分は同じ供給する場の人間、歌い手としての批評として扱うべきだ。
ジャイアンも供給の側にいるのだから、しずかちゃんはジャイアンに対してジャイアンの歌を需要する立場に立てる。つまり、彼が彼女に対してそうしたように、しずかちゃんはジャイアンの「客」となれる。
いや、ならねばならない。歌い手の誇りとして、ジャイアンは彼女を「客」として迎えねばならない。そんな勇気や覚悟が無いならマイクなど捨ててヒトカラでも行くべきだ。
つまりしずかちゃんはジャイアンに対し
「私が下手?じゃあたけしさんが歌ってご覧なさいよ」
と言う権利が十二分にあるというわけだ。
未来のジャイアンが自らの声を見直して高い歌唱力を得たのか、あるいはその時も独りよがりを続けているのかは不明だが、ジャイアンが本気で歌手の道を目指している以上は、彼はしずかちゃんに自分の歌を聞かせなければならない。

さてこの場合だが、ジャイアンの歌がこの時点でも下手糞だったならば、しずかちゃんは「ざまあ」とジャイアンを見下してみせられよう。ジャイアンは歌う事ができずに逃げ出すかもしれない。彼はただ自分より歌がうまいしずかちゃんに嫉妬していただけなのだから。
ではジャイアンは自らの歌を見直していて、しずかちゃんより歌唱力が勝っていたものとしよう。
また、ジャイアンがしずかちゃんに向けた批評は「どこどこの音をどう歌えばもっとよく聞こえるよ」といったアドバイスではなく、単に「歌が下手だ」といった言葉、つまり感想、ただのヤジだったとする。
普通の状況で、こんな煮ても焼いても食えないヤジを自らより歌唱力が劣る人間にわざわざ向けたりする訳がない。少し想像してみればわかることだ。そんなことをするのはよっぽど大人気がないか暇がありすぎるかのどちらかあるいは両方だ。
ではなぜそんなヤジを言わざるを得なかったのか。
簡単だ。これも嫉妬であろう。
自分より歌唱力が低い人間が、歌唱力以外の所で評価されていたとしたら?かわいいから、いいマネージャーがついているから、有名ブランドの助太刀、そして、自分よりよくテレビに出ているから。etc.

gdgd書いたけど何が言いたいかと言えば、ある作品に対してどうこう言う時の態度っていうのが何か、気に食わないケースが時々ある訳なんですよ。うん。

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